「疑惑のあなたのニュース」立ち上げのご挨拶

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ご挨拶

このサイト、『疑惑のあなたのニュース』(www.gorotsuki.wpblog.jp)は私の「個人史」が起因となって立ち上げられたものであります。私の経歴・賞罰・仕事歴はこちらでご笑覧ください。
本サイトは、ネットでお金儲けする人のなぜをみつけて、なぜに答えるニュースサイトです。みなさんのなぜに答えるために、当事者にあったり、現場で事実を見つけます。テーマはエンターテイメントとユーモアに包まれた疑惑の追及です。
そもそも、『悪事は追及する』『頑張る人を支える』ーそれがメディアの力であるとみなさんはお忘れではありませんか?世の中にはその二つを両立したメディア機能がありません。オランダの「デ・コレスポンデント」は有料の調査報道ネットメディアとして成功しており、『隷属なき道』(ルドガーブレグマン)のいう世界に実現に邁進しています。広告収入に一切頼らない。月6ユーロの購読収入で運営するという、独立性を維持したニュースサイトであります。
本サイトは、広告収入の形式をとる予定ですが、従来の客観報道をやめます。書き手の怒り、疑問、喜びが素直に出た記事にすることや、日々のニュースを追うのではなく、深い背景をえぐるストーリーを追います。従来の客観報道をやめるという趣旨では、オランダの調査報道「デ・コレスポンデント」と同じ立場をとります。私は16年間の仕事を通じて、自分が何者で何を信じているかを前面に出したメディアのこそが信頼を得るという確信を持っています。真面目な人が損する社会はダメだという思いが過去からの教訓であり、未来への希望です。

今後ともよろしくおねがい申し上げます。

「疑惑のあなたのニュース」管理人
Universal Islands代表 塩谷檀葉

 

トピック
・はじめに
・恩師との出会い
・恩師からの教え
・日々の時間に自分は存在しないー過去とのつながりが強くなる毎日
・何ができるのかを探し求めて
・最も強い人間はこの世で生きながら死ぬこと。
・思考と感覚は過去から生まれる
・おわりにーなぜ、ねじまげるのか。

 

はじめに

以下をお読みいただくと、なぜこのサイトを私が運用する必要に至り、このサイトが今後どうして世の中に必要なのかおわりかいただけると思います。
私は、1976年9月に京都左京区の三条通1番地にある古い家で生まれた。この家はいまでもある。

古めかしい角ばった引き戸に大きな盆が掲げてあるのがその長屋だ。彼の父親吉田祥宏は京都の左京区生まれで、職業は経営者。彼の祖父もやはりそうだった。養祖父の一人は引退して東京に住んでいるが、以前はずっと京都や徳島の木工現場で工芸技術を教えていた。

つまりこの家系は、父から息子に受け継がれる形でみんな経営者だったのだ。祖先の一人は早稲田大学の理工学部出身の薬学博士だったが、34歳の時に兎糞症で死んだ。私の母は美衣子。良識のある人で、52歳で多臓器ガンで死んだ。

爪先《つまさき》まで充血するほど身もだえながら、贋魚はふと、自分が贋魚かもしれないという、致命的な疑惑に辿りつく。いったん疑いはじめてみると、たしかに奇妙なことだらけだ。手足のことばかりでなく、生れつき声帯だってあるはずもない魚の身で、こんなふうに言葉を使って悩んでいる。むず痒《がゆ》いような二重感覚(安部公房『箱男』)

デビュー作は、『食のすべて』(NHK)と言うタイトルの凡庸な番組だった。次に番組台本を書く。史上初めて東京の児童買春の買い手組織を題材としたドキュメンタリー『少女たちが陥る罠』である。

これは2010年にテレビで放送された。狙うとするところは貞潔なものだったが、テレビでは風紀錯乱にあたるとして、著しく自主規制した。ご承知のように、韓国の映画監督のキムギドクの『やぶしま』が性と女性表現に対して、突破口を開くのはこの後のことである。それによって私が製作したテレビドキュメンタリーも放送されることになり、一定の評価を得た。この作品は、取材においてあちこちに精確な観察が収められている。

そしてすでに、この作品の映像の病的な性質が露わになっている。しかし私に言わせれば、言葉があまりにもヴォルテールのカンヴィード的<破滅的>なのかもしれません。デビュー作としては興味ふかいし感銘も強いが、短すぎるし個性も十分に発揮できていない。その後、アドボカシー(弱者の権利擁護)の立場で、報道ドキュメンタリーを始めことになる。そんな私の人生をきめたのは、恩師との出会いである。

 

恩師との出会い

人間の出会いというのは、本当に些細な偶然から始まるものなのである。平成20年、わたしがまだ大学の三回生だった頃、京都市左京区にあった大学から、京都の美術館へ、課外授業に連れて行かれた。おそらく課題教育のつもりだったのだろうが、ものすごくしずかな館内で、私たち学生一団はガヤガヤと話をする大体の学生は、迷惑な客だったと思う。

その日は、京都に眠る大衆芸能と 民謡という特別展が行われ、京都にまつわる江戸期発祥の芸能や民謡から、チンドンやまで陳列されていた。しかし、それらの資料については、何の記憶に残っていない。それらの前を、通り抜ける学生の一団のひとりだったにちがいない。

しかし、やがて私の目には、一つのへ殺風景の部屋の中に、一人の年配の男性が目に入り、その語り口や人柄に吸い寄せられていた。私は、今でも、その時の記憶や、表情がはっきりと覚えている。それが私の恩師となった岡本一彦さんとの最初の出会いである。

岡本さんは、東京を拠点としたテレビ台本作家で、日本オペラの劇作家でもあった。「鳴神・俊寛」、パントマイムを融合した地唄舞など、大衆的な視野にあった新しい表現を追究しているひとだった。1964年にNHKで製作した「大仏開眼」が文化庁芸術祭で優秀賞に輝き、ザルツブルク映像祭で受賞したことで、1980年から、文化庁芸術祭の審査員を務めていた。その日は彼の作品を初めてみる機会となった。

民謡、パントマイム、江戸手妻…岡本さんは何か深い思いがあって、大衆芸能に興味があることは、わたしのような学生でもわかった。その深い理由は後になって、知ることになる。

第二次世界大戦の敗北で日本は急激な西洋化がまだ生々しく記憶に残っていた当時(岡本さんの作品は1960年代が最も評価されていた)、日本人が古来から持っていた根強い日本人としての意識や、粘り強い生き方から掘り起こした様な大衆の表現を芸術に深化させていた。その当時、学生だった私も、日本が西洋化する時代性がある中で、生活実感のある表現が必要であると考えていた中で、岡本さんがそうした表現で世界に挑戦する仕事、彼の天才的な予見を感じたことに、いまでは思えてならない。岡本さんの表現は、生活のために生きる日本人の生き方や考え方を捉えているだけではなく、するどく未来へと突き刺す批評も存在していた。

恩師からの教え

岡本さんは戦争中の軍国主義の思い出が強く、戦後の作品も、社会批評のために作られた作品が多い。岡本さんは子供の頃から西洋オペラが好きで、戦争のとき岡本さんと兄はドラム缶の中に隠れて、オペラを聴いていたという。広島の師範小学校の四年生の時、原爆した。岡本さんがいたのは、原爆投下の場所から半径18キロの地点である。戦争という記憶のなかで、日本人が言葉にできなかった思いや考えを「大衆芸能」という思想から、あらゆる価値を引き出すことに挑戦をし続けた。

当時私の友達で医学部の山田という男がいた。酒が好きな男で、長野県立上田高校で成績トップで、4浪の末に大学に入学してきた男で、私は彼から酒を教わった。漠然と、岡本さんの作品を寮で眺める私のそばによってきて、「君は芸術が好きなのか」と聞いた。山田はその時、おそらく医学というサイエンスを勉強する世界の対比でそういったのだと思うが、それはわからない。しかし、私は岡本さんの作品から「真面目なひとに光を当てる」「頑張っているひとや困っている日に光をあてる」、そしてそれを誰かがやらなければならない」という決意がマスメディアの仕事であると学んだ。

日々の時間に自分は存在しないー過去とのつながりが強くなる毎日

当時、私は実の母親を病気で亡くし気を落としていた。市内の寺や、ひとの家に住み込んだりして、大きく禅に傾いていた。前期の細密描写の絵も好きで、禅としての抽象的、象徴的なテーマが好きだった。それはわたしにとって、人生とはなにか、日本人とは何か、ひいては表現とは何か、仕事とは女性とは何かという問い詰めをした時期だったかもしれない。同時に、教養や常識に縛られることがなく、人生を味わう基礎になったかもしいれない。それは、あとに私がテレビドキュメンタリーで、児童買春組織を逮捕へと至った作品や、有名なドキュメンタリー番組の1製作スタッフとして、20カ国ほどに訪問して番組を作る様になり、投資業へと常識破りの転換に至るきっかけでもある。

何に関する議論なのか、私にはわからなかった

私は岡本さんとの出会いが感動の尾を引いて、それから10年ほど文化庁芸術祭の支援公演を一緒に観覧しては、岡本さんと会い続けた。平成15年から平成21年にかけて、私は報道番組と子供番組を作っている。この中では、教育番組のシャキーンで、共同スタッフとしてテレビアジア賞を受賞するスタッフの一員として名誉を得た。何よりも喜んでくれたのは岡本さんである。しかし、この時期は私にとっては沈滞期で、本来に自分にしかできない表現や仕事という意味での問い詰めが、テレビ映像のスタッフの役割に終始して、悩みを抱える日々だった。作風としては、オリジル性に乏しく、あまり興味がある仕事は個人としてしていないと思う。

何ができるのか探し求めて

私が自分を取り戻すのは、平成23年にドキュメンタリー番組を製作してからである。NHKや民放で1970年から80年代に活躍したドキュメンタリストの影響で、自分しかできない新しい表現や仕事をしようと、メディアとしての本来の主題に立ち返るのであった。それから、テレビメディアから独立をして、インターネットサイトで編集長を務め、独立してからもドキュメンタリー番組の製作や、地道な調査と取材で逮捕に至るドキュメンタリーを数作作ったことで、私の取材を追いかけるというBSの番組出演もする機会を持った。真面目な人が損する社会は絶対に止めなければならない。そういった理想を胸に追いかけ続けることが、私の真骨頂が発揮されている。

この種の作品はテレビの長尺で発表した数は少なく、報道や情報番組の短尺枠が多い。まとめてインターネットで紹介することは難しく、折を見て、台本や脚本などを通じて紹介したいと思う。

最も強い人間はこの世で生きながら死ぬこと。それは過去に世界が存在したあかし

岡本さんは2011年に74歳で他界した。そして私と岡本さんとの再度の「出会い」去年の大晦日である。私が、独立をして2年目である。そこは、岡本さんが25年間支援続けた「東京の民謡を歌い継ぐ」という組織の定期公演だった。私は31日の大晦日の夜、高齢の客がポツポツと集める浅草の小さいなホールで、岡本一彦という一人の男が74年間信じ続けたものを見た。

思考と感覚は過去から生まれる

それは、影も形もない、温かなものである。私はプロの厳しさ、芸能のふしぎ、仕事の楽しさを、岡本さんから教えてもらった。仕事場で何度も話をして、生活の場にお邪魔して、夫婦喧嘩もみた。お金にこまっている岡本さんは、困っているそぶりを見せずに、いつもお金を払ってくれた。

物事は正しい。私の眼の前で起こることは。

なぜ、ねじまげるのか

インターネットでは、若者たちが、一攫千金を夢見て、巧みな話術でお金を集めている。しかし、原資は真面目な人たちが、汗を流して稼いだお金である。毎日の雑踏の中でも、生活に苦しみ、家族のために状況を改善しようと必死にもがいている人がいる。そんな人たちが犠牲になるビジネスならば、くいとめなければならない。「なぜ、ねじまげるのか」ーそれがこのサイトで私のメッセージです。

 


 

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